●2004年9月


「閑々随筆」トップへ バックナンバー インデックスへ




●スローな河内音頭にしてくれ● 9月27日


 すっかり鎮静した観のある健康ブームですが、当初、健康のためにしゃかりきになっている人々を揶揄したことばがありました。「健康のためなら死んでもいい」というやつですね。ムーブメントというよりもビジネスの側面があまりにも目立ったため、胡散臭さはひときわ強烈でしたな。

 健康の二文字が入ってさえいればビジネスに結びつくという安易な考え方が跋扈するさまは、まさにバブル。食品から器具まで、あらゆるアイテムを巻き込んだ大変なブームでしたが、「商品を消費しなければ手に入らない健康ってなによ?」ということに消費者はやがて気づいてしまいました。飽きてもいたのでしょう。商品のダンピングが盛んな現状を見るにつけ、ブームとは罪作りなものだと思います。

 ところで最近、スローライフ、スローハウス、スローウェア、スローツーリズム、スローインダストリー、スローエイジング、スローエデュケーションなど、スローナントカというのがはやってますな。

 その本家本元はイタリアの「スローフード運動」で、漫然と食うのではなく、伝統食をじっくり見直してみてはどうかというもの。ローマにマクドナルドが出店したことに端を発するもので、あっちが「ファーストフード」なら、こっちは「スローフード」だ、というおやじギャグのノリが出発点というからたまりません。
 ネーミングのセンスはともかく、スローフード協会という組織は、小生産者の保護や子供たちへの味覚教育の推進など、なかなか立派なことをしているようです。

 こういう考え方が、食料自給率がカロリーベースで40%(2002年)という日本にインパクトを与えることに期待したいのですが、「スロー最高!」とばかりに、なんでもかんでもスローをくっつけて持ち上げるのはいかがなものでしょうか。
 最初は、これもブームのひとつか冗談だろうと思っていました。産業立国日本がスローインダストリーなんて言いはじめたらおしまいですからね。

 ところが、ある著名なジャーナリストが、スローとは心の持ち方のこと、と明言するにおよんで、きな臭さが漂ってきましたよ。合衆国批判をマクラに振ったあとでこれですから、怪しさ倍増。資本制にぶつけるイデオロギーとして、スローは最適でしょうから。「健康」のように明確なものではなく、「癒し」のように曖昧なものでもない「スロー」には、「心の持ち方」なんて甘いものではなく、「教義」に収斂する力がありますな。

 ジャーナリストが「心の持ち方」を論じることの是非は、このさい置いておくとして、「これからはスローライフだ」なんて、わざわざ言うべきことでしょうかね。
 スローだってファーストだって、その人の気質に大きく左右されるものですから、どっちかなんて言えないと思うんですよ。ある人のスローが、別の人にとってはファーストだってこともありますから。
 多様性と相対性があるからこそ、人生はおもしろい。だいたい、「これはスローだからOK。これはファーストだからNG」と誰に判じることができましょうか?

 言われるまでもなく、あるときはスロー、あるときはファースト、というふうにギアチェンジしているのがわたしたちです。
 要はバランスおよびメリハリの問題。
 スローが好きだといってもアウトドアライフだけで生計を立ててゆくことは難しいでしょうし、ファースト命といって仕事場に連泊していては家庭崩壊は必至です。

 おせっかいな主張には、当然のごとく裏がありますから、このスローナントカも話半分で聞いておくのがよろしかろうと思います。しかし、この“スローイズム”は耳あたりがひじょうによく、ついふらふらと同調しそうになりますな。
 サイト更新だけはスローでいきたい、とかね。
 いかがでしょうか、年1回のスロー更新というのは? うん、いいですなあ。

 レンタルサーバ使用料もスロー支払で5年に一回とか?
 あ、これはダメだ。単なる一括払だ。






●鍋奉行はお好き?● 9月15日


 長編小説を読む醍醐味は、複数の登場人物が織りなすエピソードの幅と密度につきるのではないでしょうか。
 とくに西洋の翻訳小説などは国民性・民族性の違いが如実に反映されて、これでもかこれでもかと、こってりとエピソードが描写されますな。ここまで書かんとわからんだろう、とでも言いたげな著者の意図がびしばし伝わってきます。
 新しい登場人物が出てくるたびに身構えているようでは、このような長篇は楽しめません。あれこれ考えずに受け身感覚で読む。やがてストーリーが一本にまとまってゆくと、これまで読み進めてきた苦労が快感に変質。読み終えたとき、一種の達成感が味わえますな。

 おっと、枕が長すぎました。今回は構成について思うところをお話ししようと思っているのです。
 多数のエピソードが物語世界の深みやリアリティを増す役割を果たしますが、それは、複眼思考の賜物。ストーリーの流れを踏まえたうえで、あえて主人公とは無関係に思えるエピソードを書き込み、クライマックスへの布石にする。飛び道具のような、あるいはボディブローのような効果が、意外性となって効いてくるわけです。

 しかし、これは長篇でのみ使える思考法であり、テクニックであります。

 短篇でこれをやると、なにがなんだかという散漫さに直結してしまいます。短篇小説では、むしろ視点を散らさずに、主人公に的を絞るといった構成が必要でしょう。
 かといって、一人称で書くべしというのではありません。全編をとおして主人公が出ずっぱりならOK。一人称で陥りがちな変な客観的描写を避けることができるというメリットもありますしね。

 短篇小説についてはまた稿を改めるとして、複眼思考の甘い罠についてどんどん進めてまいりましょう。
 長篇小説を書いていらっしゃるかたなら、ここまで述べてきたことについてはとっくにご承知のことだと思います。しかし、頭でわかっていても、いざ書くとなると筆がすべったり走ったりするのはよくあるケースです。
 あるエピソードを書きはじめたのはいいけれど、登場人物に入れ込んでしまい、そのままスピンオフできそうなほどエピソードの量が増えてしまったという経験はありませんか。
 まあ、書けば書くほど分量が増えますから、「うむ、書いたぞ」という充実感は味わえるでしょうが、読者はたまったものではありません。本筋を見失わず、無事に完結してくれればめでたしなのですが、エピソードに足を取られてしまったあげく求心力を失い、未完のまま放置ということにでもなれば、暴動必至ですな。

 わずかな時間を使ってせっせと物語を紡いでゆく苦労はいかばかりかとお察ししますが、あと少し、バランスへの目配りがあれば、日々の苦労は大いに報われるものと思われます。

 俗なたとえで恐縮ですが、エピソードのあんばいは、寄せ鍋のバランスそのものと申せましょう。具の種類だけでなく、量や煮え具合がうまさを左右する大切なポイントになりますから。
 寄せ鍋は嫌いだ、というかたは、音楽をイメージしてください。ただし、似たようなリフが延々とつづくミニマルなもの以外の音楽を。
 複眼思考のなんたるかが、実感としておわかりになろうかと思います。




「閑々随筆」トップへ バックナンバー インデックスへ
Web Publishing AZUSA (C)2003-2018  All rights reserved.