●2004年7月


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●リメイク、リニューアル、実はリサイクル● 7月13日


「物語のパターンは出尽くした」というフレーズを耳にするたびに、人間の想像力をなめてもらっちゃ困ると自信たっぷりに思っていたんですが、ここ10年くらいのアメリカ映画のラインナップを見ていて、あるいは……という危惧に駆られました。

 リメイクばっかりなんですね。とくに最近はそう。『テキサス・チェーンソー』しかり、『ドーン・オブ・ザ・デッド』しかり。いずれも映画史に残る傑作をリメイクしたものですな。
厳密にはリメイクとは言わないのかもしれないけれど、コミック、アニメ、ゲームを実写化したものも多い。
 オリジナルの本なりフィルムなりが完全に失われ、伝説と化しているならまだしも、オリジナル作品という“ブツ”が当時のクオリティ(か、それ以上)で手に入る状況にあるわけなのに、なぜリメイクが必要なのでしょうか。

「時代のリズムや好みに合わせて作り直した」というのが、もっとも考えられる建前でしょう。本音は、「もとから知名度があるから上がりは堅い」というところかな。
 こういう志の低さだから、たいていのリメイクものは面白くありませんな。ラストやキャラクターをいじったところで、どうしてもオリジナルを意識したものになり、違和感ありありというていたらく。オリジナルにリスペクトして焼き直しを作るより、オリジナルをぶっ壊すつもりで換骨奪胎をめざしてほしいとは思いますね。
 オリジナル原理主義者を標榜する気はありませんが、既成の物語を語り直す意味が私にはわからんのですよ。リメイクなんかない、活字の世界に漬かってしまっているからそう思うのかもしれません。

 だって、『坊つちやん』のリメイクなんて聞いたことがありますか。『細雪』のリメイクは? (『○○版 源氏物語』なんてのもありますが、あれは翻訳ものですから、リメイクには入れないでおきます)
そんなものを企画したとたん、「他人のふんどし男」の烙印をおされるのは確実です。なぜ、映像なら許されて、文芸なら不可なのか。労力のわりには、尊敬と報酬が見合わないからではないかとにらんでいるのですが……。

 しかし、これもわたしの思い込みかもしれません。今、この瞬間にも着々と名作小説のリメイクが制作されていたりして。現代風にアレンジされた『細雪』が爆発的にヒットしたりして。
 先日、分厚いペーパーバックを抱えた外人と電車に乗り合わせました。その書名は“The Makioka Sisters”。『細雪』の英語翻訳本なのですが、妙に新鮮でした。これが“Sasame-yuki”とかだったら、印象に残らなかったでしょう。
 タイトルだけでもこれだけのインパクトを受けるのですから、リメイクとなったら……。うーん、ちょびっとだけ読んでみたいかな。

 いかんいかん、誘惑に駆られるとは何事か。
 人間の想像力が無尽蔵であることを、わたしは信じたい。いや、信じています。信じていますとも。






●資料は鯨か蜂蜜か● 7月26日


 納得のいくまで資料収集しなくては着筆できないし、書き進めながらも資料を渉猟するという方がほとんどだと思います。
 そして、創作をスタートしたのはいいけれど、背負った資料のあまりのボリュームに足元がおぼつかなくなる方もまた多いようです。「著者に訊け!」にご登場いただいた高島芙美さんも、資料に魅入られてしまうことがあるというようなことをおっしゃってました。
 そこで思い出したのが、とある作家のこと。

 駆け出しの頃、ある新進作家のサブ担当を務めたときのことです。
 フルタイムの作家ではなかったので、資料収集役を出版社が買って出ました。お察しのとおり、購入担当は下っ端のわたし。
 インターネットという便利なものは、まだ存在すらしない時代でしたから、国会図書館と書店(古書店含む)をかけずり回りました。
 いくら詳細なシノプシスを聞かされているとはいえ、本人のかわりに資料を漁るなど、どう考えても無茶です。メインの編集者に泣きを入れたのも一度や二度ではありません。そのたびに「カネは会社が出すから心配するな」と言われるのですが、お金の心配をしていたわけではありません。とんちんかんなものを選んでしまいはせぬか、そのせいで作品の質に影響を与えてしまいはせぬかと、もう不安で不安で。
 しまいには、自分の小説に必要な資料ぐらいは自分で買いやがれ、と自棄気味になってしまいました。
 段ボール箱4個に書籍やコピーを詰め込んで送りつけて任務完了です。そのときは、あとで文句を言っても知ったこっちゃない、と腹をくくりましたね。

 そんなことがあったことすら忘れかけた頃、先輩編集者がわたしのデスクにゲラの束を置きました。
 その作家の最新作です。資料収集の悪夢が一気によみがえりました。先輩は、無表情のまま、「読んでみ」とばかりに顎をしゃくってみせるだけです。わたしは、恐る恐るゲラをめくりました。

 いやあ、面白いのなんの! 一気に読んでしまいました。
 資料にはひととおり目を通していましたから、どの程度が作品に反映されているか、わたしにはわかります。
 見た目には、まったく反映されていませんでした。
 あくまでも、見た目、にはですよ。しかし、わたしにはわかりました。資料がこまかく選り分けられ、セリフや描写にちりばめられているのが。いかにも「調べました」という文章が、まったくない。
 わたしがかき集めた資料のうち、実際に作品に使われたのは1割程度です。わたしの選択眼が曇っていたのでしょうか。いたたまれなくなって先輩に訊ねると、「一流の物書きとはそんなもんよ」と軽くいなされました。「9割は使わないけど、目は通してる。あの人は、つまみ食いして一丁上がりっていう作家じゃないからな」。

 優れた作家にとって、資料はあくまでもエッセンスであって、素材ではないということが、このときはっきりわかりました。そのような目で見てみると、資料にもたれかかっている作家がなんと多いことか。物語のバックグラウンドを説明するつもりが、単なるハウツー小説になってしまったりしているものが目につきます。

 資料は鯨じゃないんですから、捨てるところなんてないなんてケチなこと言わずにクールに取捨選択するのが吉。かといって、ただ捨てるのではなく、くだんの作家のようにエッセンスを吸収したうえで、捨てる。例えるなら、蜂蜜タイプとでも言いましょうか。
 芸事に欠かせない「粋(いき)」は「粋(すい)」から生まれる、とわたしは信じているのですが、食べるぶんには鯨も大好き。捨てるところがないなんて、地球環境にもよろしゅうございますな。
 おっと、無粋な蛇足になりました。




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