●2004年5月


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●ひとつでじゅうぶんですよ● 5月8日


 あるグラフィック・デザイナーと四方山話に興じていたときのことです。
 なりゆきで、「ふたつでじゅうぶんですよ。わかってくださいよ」とボブ・オカザキの物真似をしたんですが、まったくの無反応。
 しまったはずしてしまったみっともない、と内心焦りながらも「あんまり似てなかった?」と訊ねたところ、「それはいったい何ですか」と問い返されてしまいました。

 相手は三十代半ばの男。何度も言いますけど、職業はグラフィックデザイナー。そんな人が、ポストモダンの傑作、『ブレードランナー』を知らないなんて、ちょっと考えられません。
 恐る恐る訊いてみました。
「『ブレードランナー』は見てるよね」
「は? ブレ……何ですか?」
 だめだこりゃ。やっぱり見てない。
 しかし、ここで、そもそもブレードランナーというのはなあ、とやってしまうとノスタルジック蘊蓄おやじの烙印を捺されられかねないので、話題をすばやくすり替えました。

 くだんの作品はすでにカルト映画の殿堂入りを果たしています。年月に流し去られるようなヤワなものではなく、映画ファンの基礎教養として映画史に屹立する名作だと長く信じていました。もちろん、アートに携わる者にとってもはずせないポイントであることも確かです。
 しかし、それはわたしの思い込みだったのかもしれません。
 団塊の世代と称される年代のかたが、ジャン・リュック・ゴダールがどうの、『気狂いピエロ』がどうのと喜々として話すのを眺めながら、「おまえはもう、すでに死んでいる」と胸の裡で合掌していたツケが回ってきたのでしょうか。

 映画というのは、色あせてゆく運命にあるのかもしれません。オールタイムベストと思っているのは、その映画に出合ったときの衝撃を忘れないために自分に言い聞かせているだけのことなのかも。
 画期的な映画なればこそ、その亜流が続々と作られ、悪貨が良貨を駆逐するの譬えどおり、どこをどうインスパイアされればこのようなものが出来上がるのかという作品が主流になっていたりします。
 こうなってくると、ひょっとして、あのときの衝撃は勘違いというか若気の至りというか、とにかく本物ではなかったのではないかという、恐ろしい疑惑が生じたりするわけです。そんな映画はとっくに古びてしまっていて、殿堂入りというよりも博物館入りだったのではないか、と。

 で、見ました。やっぱり最高ですな。若いときよりも物語の深みがわかるようになり、ディテールの凝りように息をのみました。奇蹟のような映画です、何度見ても。亜流はいりません。オマージュと称するパクりもいりません。
 ノスタルジック蘊蓄おやじの烙印を捺されてもかまわない。これは人類の宝、世界文化遺産なのだ、と意を強くして、例のデザイナーにはっきりと言いました。
「見といたほうがいいって。スピルバーグだって、ウォシャウスキー兄弟だって、リュック・ベッソンだって逆立ちしたってかないっこないんだから」

 デザイナーは苦笑を浮かべました。「スピルバーグはなんとかわかるんですが、あとの人たちは誰ですか」
 よくよく聞いてみると、このデザイナーは映画をあまり見ない人だったんです。『マトリックス』すら見ていないという。映画が嫌いなのではなく、忙しすぎて見る時間がないらしいのです。
「見に行こうと思ってても、気づいたら上映が終わってたりね。映画にすら行けないのに、ビデオなんて見る時間ありませんよ」

 わたしには返すことばもありませんでした。
 そんな人もいるのです。若い人は映画をどんどん見ているものなんだ、ということこそ、わたしの勝手な思い込みだったようです。
 さらに、年下のデザイナーよりも暇だったという事実も明らかになり、また別の意味で衝撃を受けました。
「おまえはもう、すでに死んでいる」。それは、わたし自身のことだったのかもしれません。まさに、人を呪わば穴二つ。穴はひとつでじゅうぶんですよ、わかってくださいよ、ですな。






●たこやき猿人現る!● 5月31日

 父の喜寿の祝いに、デスクトップパソコンを贈りました。
 本人は、この齢になっていまさらなんて言ってますが、まんざらでもなさそうです。
これが、年寄りへの贈り物のコツ。年齢にふさわしい、枯れたものを贈っても、ぜんぜん喜ばれないんですね。おやじならマスターできるよ(衣類なら「似合うよ」)、なんていうことばを添えるのがポイント。
 案の定、ISPにも自主的に申し込み、なんとADSL45Mbpsという恐るべき通信環境を整えてしまいました。
 それからの電話攻勢には閉口です。図らずも父のパーソナル・サポセン状態。まさかここまでハマるとは……。
 しかし、禍福はあざなえる縄のごとし。サポセン業務の日々に、ネタが転がっておりましたよ。

 効果的なサーチの手順を教えていたときです。わたしのひとことに父が異常に反応したのです。

「おい、これのどこにガソリンを入れるんだ。おまえ、ことばの使い方がおかしいぞ。日本語で話せ、日本語で」
「そんなもん入れないよ。サーチエンジンって、本体じゃなくて検索専門のWEBサイトのことだよ」
 検索サイトと言い換えると、やっと理解してくれたようですが、父の疑問ももっともです。
 わたしたちが「エンジン」という語でイメージするのは、やはり車や飛行機に載ってる内燃機関のあれですよね。しかし、最近ではテレビやデジカメの画質改善システムにもエンジンという語が用いられています。「ベガエンジン」とか「映像エンジン」とかね。

 サーチエンジンやブラウザエンジンという単語が先にあり、エンジンの概念が広がっていたため、とまどいはありませんでしたが、ことばの新鮮さというか、はったりにはひかれましたね。
 外来語は、輸入された当初はひとつの意味しか持たないものですが、しだいに意味が増え、概念が広くなる。そのうち、「たこやきエンジン」とか「下駄箱エンジン」など無節操に用いられ、本来の意味が曖昧になってしまうんですな。

 ほかにも、パフォーマンス、イニシャルなど、日本語としての意味がどんどん広がっています。「イニシャルは?」と聞かれても、頭文字のことか、イニシャルコストの略なのか判然としません。文脈からとらえないとわかりませんよね。

 そのうち、「頭文字のイニシャルは?」なんて聞き方が一般的になるかもしれません。事典を「ことてん」、辞典を「ことばてん」、字典を「もじてん」と言い替えるのと似ているようで、ちょっと違いますね。外来語の同音異義語化というよりも、同語多義化とでも言ったらよいでしょうか。漢字の熟語とは異なり、見ただけではわからないから、ややこしい。

 これから、こんなことばがどんどん増えてゆくでしょう。しかし、それに付き合ってゆくにも限度がある。そういうときは潔く、父のことばを心の支えにするつもりです。
 新しいことばをおぼえて得意がっている輩に、「ことばの使い方がおかしいぞ」と堂々と言ってやりますよ。日本語で話せ、と。
 こういうところで若作りしても、みっともないだけです。頑固でけっこう。保守反動ナイス。肥後もっこす上等。いごっそうOK。セイブ・ザ・ヤマトコトバ。アゲンスト……怪しくなってきたので、このへんで打ち止め。

 今回は、孝行話などが飛び出したりして、ちょっとホンワカしました。たまにはこういう展開もいいもんです。しかし、「たこやきエンジン」とは……。
 苦しまぎれの思いつきとはいえ、実際にあったら見てみたくもありますな。




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