●2003年11月


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●タテヨコ鼎談ひとまず撤収● 11月4日

出席者/編集長(文中H)、編集部員A(文中A)、編集部員B(文中B)、通信教室担当(文中T)

H さて、横書きされた日本語――とくに文芸作品を読むことの違和感は、文化と習慣からくるものだということでよろしゅうございますね?

B 急にかしこまったねえ。
  うん、たしかに“東方の一賢人”さんの意見には賛成です。問題は、モニタと紙の差についてだったかな?

H すみませんね、わたしが余計なことを言ったばっかりに。しかし、オンライン文芸支援サイトを標榜するからには、モニタについては避けて通れないでしょう。ね、みなさんが薄々感づいていたことをわたしが言ったまでなんですよ。さ、進めましょう。

A なんだよ、大義名分もち出して逆ギレかよ。

T でも、IT、ITなんて言うけど、人間に負担がかかるインターフェイスはどうにかならないのかな?

H やっぱりつらいですか、モニタで読むのは。

T まえにも言ったように、テキストリーダーで自分に合った環境をつくっていますから、そうでもないです。でも、ブラウザで読むのはちょっと……。

B おれもそうなんだけど……。でも、そんなこと言っちゃっていいの?

T いいの。うちはウェブデザイン評価サイトじゃないんだから。気になる作品はテキストリーダーで読むのがいちばん。

A デザイン面がつらいサイトはあるよね。地紋が邪魔になったり、フレームがスムーズじゃなかったり、レイアウトが異常だったり。

B 異常なレイアウト? たとえば?

A 全行センター揃えになってたりね。

H 詩じゃないんですか。

A 小説がそうなってるんです。あれは読みづらいな。あと、ダークブルーのバックにスミ文字とか。そんなのに限って字が小さいの。フォントサイズが固めてあるからブラウザで大きくできない。

T あるある。

B しかし、それはなにも文芸サイトに限ったことじゃない。ネットの世界にはたくさんあるよ。うちだって、使い勝手という点ではまだ改善の余地があるしね。
  これさえ守っとけば、サイトの作りとしてはだいじょうぶっていうルールが、あるようでないよな。

H そのことばを待ってましたよ。まさに、臥虎藏龍、臥薪嘗胆!

T ……なに言ってるんですか。

H 困ったときのご意見番、“東方の一賢人”からのお便りを紹介しましょう。

A またかよ。その人に迷惑かけてるんじゃないんですか。そのうち愛想づかしされちゃうよ。

H そのかたは、10年ほどまえからオンライン文芸活動を開始。現在はプログラマとして活躍。CGIスクリプトやPerl用ライブラリを発表しておられるそうな。CGIとかPerlとか言われても、わたしにはさっぱりですが。
 とにかく、その経験から導き出された「ディスプレイの(電子文書の)読みづらさ」の要因として、



1.ディスプレイは印刷物より解像度が低いので、そもそも読みづらい。

2.画面で見るための電子文書はプレーンテクストで運用するのが通例、ウェブ以前にこれらをレイアウトする発想は存在せず、いまもって方法論も技術体系も確立していない。

3.ネットの普及とともに、文章構成力とレイアウトのスキルに欠ける作者が大量に出現した。



と、これらのことが考えられるそうです。
 3.なんて、Bさんの意見のあとだけに耳が痛いですな。

A 1.は紙との比較ですよね。もう結論が出ちゃったよ。

B 待て。2.がポイントだ。これだよ、おれが言いたかったのは。ここまでネットが浸透してるってのに、みんなてんでに試行錯誤してるんだよ。救世主みたいな人が現れるまで。

H こういう問題は、時間が解決してくれるものなんでしょうかね。

A テクノロジーのスピードを考えると、時間は追いつけないような気がするけど。

T “東方の一賢人”さんのことばから、昔も今も未来も、電子文書はテキストファイルという印象を受けて、ちょっとほっとしています。
  某ワープロソフトなんて、デファクトスタンダードなんて威張ってますけど、10年後はどうなっているかわかりません。もし、メーカーがサポートをやめちゃったら、そのソフトでつくったドキュメントファイルはどうなります?

H ワープロ専用機が消えたときのことを思い出しますな。
  膨大なファイルをテキストデータにコンバートしなくちゃなりませんでした。表や罫線はもちろんパア。泣かされた人は多いんじゃないんですか。
  でも、ワープロとブラウザと同関係あるんですか。バイナリファイルがまずいってことですか。

A HTMLは、いわばテキストデータでしょ?

T わたしが言ってるのは、表示法のこと。自分ではコントロールできない方法論や技術体系を待つんじゃなくて、自分で持つの。そのためには、データはプレーンテキストでなきゃだめなのよ。

B えらい話になってきたぞ。

T どうしたってブラウザで小説を読むのはしんどいんだから、好みのテキストリーダーで好みのレイアウトにして読んだらどうかっていうことなんです。

A なるほど。プレーンテキストだったら、アプリケーションやOSのはやりすたりには関係ないもんね。

B “東方の一賢人”さんの「画面で見るための電子文書はプレーンテクストで運用するのが通例」というのがミソだったんだ。
  つまり、Tさんが言いたいのは、モニタの解像度の低さはしかたがない、しかし無理にブラウザで読むことはないんじゃないか、ということだな。

H だとしたら、サイトデザインってのは何なんでしょ? そこまで言い切ってしまっては、サイトの管理人が浮かばれませんよ。

T サイトって、お店だと思うんです。デザインはエクステリアでありインテリア。気に入ったらお邪魔して、店主の人となりとか、品揃えとかを見せていただく。わたしにとって、サイトに陳列してある作品は見本ですね。これは、と思う作品はテキストに落として、あとでじっくり読むというふうに。

H そういうことなら浮かばれます。

A 結局、テキストリーダーを使いましょうって結論ですか?

H いやいや。好きに読んだらよろしい、ということですよ。ブラウザであろうが、ワープロであろうが、エディタであろうが、自分が読みやすい環境がなによりですな。

B 縦書き横書き関係なく?

H まあ、それもお好みで。

T だったら、この集まりはいったい……。

H 読者のみなさんのヒントにでもなればいいんですよ。自分はタテヨコどっちかなと、ふと思っていただくだけでじゅうぶん。

A、B、T まあね。

H ところで、以前ちらりと書いたことがあるんですが、「縦書きの論理、横書きの論理」あるいは「縦書き思考、横書き思考」というのがありそうだとは思いませんか。

A おいおい。

H 心配にはおよびません。わたしだって、まだぼんやり考えているだけですから。でも、かたちになりかけたときには、お知恵拝借。

A、B、T ………。

H ね、このとおり!






●どっかしんない● 11月10日

 5年ほど前になりますかねえ、「どっか」という語を初めて目にしたのは。
 ある映画ライターの文章に、それはありました。文脈からすると「重い物を置くさま」でも「重々しく、ゆったりと腰をおろすさま」でもなく、「どこか」のことでした。
 しゃべりことばでは「どっか」なんてよく使いますが、文字で見るのは新鮮でした。飄々とした文体によく合ってましたしね。
 狙って使っているのがよくわかりましたから、日本語の乱れなんて野暮なことは思いもしませんでした。

 ところが! いつの間にか「どっか」が市民権を得つつあるようじゃありませんか。
 雑誌の記事はもちろん、オンライン小説でもよく見かけますよ。
 狙ってるのかな、と思うとそうでもなく、ごく普通に「どこか」の代わりに使っている。
 会話文の中に用いるぶんには気にならないんですが、地の文に顔を出すと、かなり目立ちます。

 またわけのわからぬことをと言われるのを承知で言いますが、英語を無理にカタカナにしたかのような印象を受けるんですね。
 いえいえ、「どっか」が外来語と言ってるんじゃないんですよ。あくまでも、もののたとえ。
“backup”はカタカナ表記では「バックアップ」となり、日本語の発音は“bakku-appu”。「ク」も「プ」もはっきり発音します。英語本来の発音では、どうにか聞こえる程度の音しか出ません。

「どっか」はどうでしょうか? ふつう、「か」は小さく発音しますね。ところが、文字にすると同じ大きさで目に入ります。これが目につく理由でしょうか。

 言文一致の観点から「どっか」も可という人がいるかもしれませんが、こういうのを言文一致とは言わんでしょう。
 あえて言うなら“音文一致”でしょうか。入声(にっしょう)の例からいただいて“声文一致”でもいいかもしれません。

 こんな表記法が日の目をみたらたいへんですよ。思い込みや訛(なまり)の発音が字になるわけですから、もうむちゃくちゃ。
 寝台が「ベット」、鞄が「バック」、ティーバッグが「ティーパック、ティーバック」になってしまい、紅茶の話なのか色っぽい話なのかわからなくなりますからね。

 単語ならまだしも、声文一致で書かれた文章がまともに読めますか?


 その男の行方はまったくわからなかった。


と、恰好よく決めたつもりのラストシーンが、


 その男の行方はまったくわかんなかった。


となったら噴飯ものでしょう。声文一致とはこういうことです。

 念のために重ねて申し上げますが、会話文に用いるなら声文一致は可なんですよ。むしろ、話者の年齢や雰囲気がよく伝えられるから、使わない手はありません。
 先の映画ライターの文章は独白体で書かれていたので、「どっか」の新鮮な衝撃がありましたが、もし普通の解説文に使われていたとしたら、先を読むことはなかったかもしんない。

 しんないって何だよ? と突っこみを入れそうになったあなたはだいじょうぶ。
 独白体にまぎれこませても浮く語はあるということです。況(いわん)や説明文においてをや。

 この声文一致というのは、ケータイメールの浸透と無関係ではないでしょう。
 ケータイのメール機能をまったく使わないからこそ見えてくるものがあると思います。
 使わないのではなくて使えないのではないかという声が聞こえてくるまえに、退散することにいたしましょう。ではでは。





●海は死にますか山は死にますか風はどうで(以下略)● 11月21日

 けっこう真面目な話が続きましたので、今回は軽く映画の話題でも。

 なぜか急に戦争映画のDVDが手に入ったので、発作的に「バトルフィールド・アジア! 戦争映画まつり」と銘打ち、深夜の上映会を開きました。
 タイトルは勇ましいのですが、観客はわたし一人。会場は自宅リビングというこぢんまりしたものです。

 ドルビー・デジタル5.1だかDTSだかは忘れましたが、まあ、音響はたいしたもんです。銃声がきちんと分けられているし、銃弾の擦過音も首をすくめてしまいそうな迫力。
 目をつぶると、戦場のまっただ中にいるような臨場感です。

 しかし、目を開けると、そこにはあからさまに作り物の映像が繰り広げられているだけでした。
『プライベート・ライアン』(オマハビーチのシーンに限る)や『ブラックホーク・ダウン』(モガディシュにブラックホークが墜落してからに限る)からがんがん伝わってきた映像の臨場感は、かけらもありませんでした。

 あ、ちなみに「バトルフィールド・アジア! 戦争映画まつり」。上映作品は『ワンス・アンド・フォーエバー』と『ウインドトーカーズ』の2本です。

 かたやベトナム戦争、かたや太平洋戦争という違いこそあれ、アメリカ軍がアジア人を敵に回して戦うという共通点があります。しかし、兵士の内面だとか、内地で待つ家族だとか、描くものは異なりますから、別々に観れば楽しめたのでしょう。
 しかし、不幸にもわたしは立て続けに観てしまったんですな。そして、いやでも気づかされましたよ、戦闘シーンの凡庸な演出力に。

 東洋人が虫けらのように殺されるシーンは、まあ、不問としましょう。しょせんアメリカ映画ですから。
 問題なのは、同じように突撃してくる敵を、同じように掃討するシーンを、ドラマ部分をはさんでだらだらと見せられること。さすがに着弾効果はよくできていますよ。でも、それだけ。

 さらに、映画を観ている自分に気づかされてしらけてしまう演出として、被弾した兵士が「うぐ」とか「あう」とか呻きながら派手に倒れるなんてショットですな。
 わたしたちはすでに『プライベート・ライアン』や『ブラックホーク・ダウン』を観て知っています。被弾した瞬間、人間は糸の切れたあやつり人形のように無言のままどさりと倒れることを。
 だからもう、芝居がかった戦闘シーンは退屈で退屈で。戦争映画だというのに、ドラマのパートのほうが楽しめたくらいですよ。

 あれ? ちょっと待ってください。
 ドラマを盛り上げるために、わざと凡庸な演出を狙ったのかも。
 戦闘シーンは、いわばボクシングでいうところのインターバル。ドラマ部分こそラウンドそのものなのかもしれません。それにしても長いインターバルではありますが……。
 ま、これは考えすぎというものでしょう。

 戦争なんていう身も蓋もないものを描くのに、メインプロットもサブプロットもなかろうと思うのですが、これをやらないと映画にならないと思っているフィルムメーカーはまだまだ多いようです。
 小説の構成にも深く関わってくるプロットやストーリーのあれこれについては、また別の機会に譲るとしましょう。

 そんなわけで、「バトルフィールド・アジア! 戦争映画まつり」は盛り下がったまま幕を閉じたしだいです。
 戦争映画に、愛や家族や相互理解はいらない。
 エンドロールを眺めながら、「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」(芭蕉)の句が、脳裡をよぎれば上等! とわたしは思うのですが。

 さて、あなたのハートには何が残りましたか?(by 木村奈保子)





●AZUSA暮しの手帖「プロットを見極めて時間節約」● 11月29日

 前回、映画ネタでお茶を濁したかいがありました。
「プロットとは何か?」「しょうもない映画の話よりそっちのほうが気になる」等のありがたいお便りをたくさんちょうだいしております。
 ちょっと間をあけてからじっくりと、と思っていたんですが、やっちゃいましょう。
 今回はプロットのお話です。

 プロットとひちくちに言っても、考え方はさまざま。ある人にとってはストーリーと同義だったり、ある人にとっては素材集(データベース)だったりします。
 定義はないと考えていただいたほうがいいでしょうね。
 ここからは、“わたしのプロット観”で進めてゆきますので、そのつもりでおつきあいください。

 では、まず前提から。

・プロットとストーリーは別のものである。
・プロットとストーリーには、それぞれメインとサブがある。

 これだけ頭に入れておいてください。
 お、さっそく聞こえてきましたよ。「プロットとストーリーの違いは何なんだよ?」という声が。
 術語を使って説明するのは簡単ですが、それでは“論”になってしまいます。こんなお気楽なページで論じても退屈なだけですから、実例を出しながら、ひと息に説明いたしましょう。
 例は、誰でも見たことがある映画『ダイ・ハード』。あくまでも正編のほう。出来のわるい続編のほうではありません。未見のかたは、人生の損失です。すぐレンタルビデオ屋さんに走ってください。

 この物語をおおまかに分析すると、


メインプロット:刑事は妻とよりを戻せるのか。
サブプロット:ビル占拠犯のたくらみを阻止できるのか。

メインストーリー:ビル占拠→刑事の活躍→FBI登場→犯人の勝利か?→逆転
サブストーリー:功名心にかられたTVレポーターの暴走。


となります。

 ストーリーにかんしては納得がいったと思います。いわゆる“筋”ですね。
 わかりづらいのがプロットです。ビル占拠犯のたくらみ阻止のほうが、どうしてサブなの? という疑問はもっともです。

 夫婦仲の修復という個人的で卑小なテーマがなぜメインだとわかるのか? 
 それは、ビル占拠犯を退治することによって得られるものが、夫婦仲の修復だからです。
 物語の冒頭から夫婦仲がいまいちだということがしつこく説明され、描かれます。送迎リムジンの運転手との会話。受付カウンターの名簿。写真立て。そして、諍いのむしかえし。
 危機を迎えた夫婦の物語が始まるかのような出だしです。うちの夫婦もちょっとしたきっかけでこうなるんじゃないのかい、という不安の植えつけでもありますね。
 メインプロットは、受け手の興味をそそるリアルなものであるべし、というのがおわかりになるでしょう。

 賊が登場してからはアクションとサスペンスのつるべ打ちとなります。
 ここで凡庸なクリエイターなら、夫婦の危機の話はどこかに置き忘れたまま話を展開していくところです。
 しかし、この物語では、折々に夫婦が描かれる。この物語がもたらす満足感は、メインプロットが維持されているからにほかなりません。

 さらに、『ダイ・ハード』は、メインプロットとサブプロットを複数用意しています。


〈その他のメインプロット〉
・黒人巡査との信頼関係の構築。
・黒人巡査はトラウマを乗り越えることができるのか。

〈その他のサブプロット〉
・金庫を破ることができるのか。
・一味の正体と本当の目的は?


 現場でしか解決しえない課題をプロットとして錯綜させることで、物語の厚みがぐっと増しました。
 観客は大爆発(クライマックス)に拍手喝采するのではありません。大爆発のあとの抱擁(メインプロットの完結)にカタルシスをおぼえるのです。そして、満足感をいだいて劇場をあとにするのです。

 むずかしいのは匙加減。サスペンス・アクションなのに夫婦情話になったりトラウマ苦悩話になったりしたのでは元も子もありません。比重のかけぐあいが作品を左右する鍵と言えましょう。

 一度、こういった観点から小説なり映画なりを分析すると、「情景描写や心理描写はていねいだったけどそれだけ」「アクションシーンにはエキサイトしたけどなんだかスカスカ」という印象の原因がわかるはずです。

 こういう見方をおぼえると、いろいろ便利ですよ。なんといっても駄作に費やす時間が節約できます。作品の始めのほうでメインプロットが提示されない、あるいはメインプロットに興味がもてない場合はさっさと観賞するのをやめればよろしい。最後までつきあっても、きっとつらまらないに決まってます。

 そのわりには、映画にかんしては駄作ばかり見ているわたしはいったい何なんでしょうか。もうちょっと見てればおもしろくなるかも、という貧乏性というかスケベ根性がわざわいしているのでしょう。
 エンドロールをにらみながら、こいつらがつくった映画は二度と見らん! と今夜もつぶやく自分の姿が見えるようです。

 因果な映画盆暗の一席でございました。







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