●2003年9月


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●人生売ります、か?● 9月5日

 北海道はすっかり晩秋の気候だというのに、こちら大阪はまだまだ夏。阪神タイガースの優勝へのマジックが一桁になったとかで、もう街を歩けば黄色と黒のだんだら模様ばかりが目に付く盛り上がりぶりです。あー暑苦しい。
 今回は、きびしい残暑にぐったりしているかたに納涼企画をお届けしましょう。

 駆け出しの頃の話です。
 とある老舗出版社の文芸誌編集者と喫茶店で待ち合わせしたところ、一人の青年を伴って現れました。聞けば、その出版社が主催する小説新人賞の常連候補ということ。
「上京のついでに、電話をくれたもんだから」
 編集者は、アイスコーヒーを注文しながら、わたしに説明しました。
「いろいろ訊きたいんだってさ、業界のことを。きみも力になってやってよ」
 といっても、青年の質問はもっぱら小説のことや作家という職業のことに集中し、わたしなんかが答えられるものではありませんでした。
 ベテラン編集者はアイスコーヒーに口もつけずに、親切に答えていました。わたしにとっても参考になる話で、状況が許せばメモを取りたいくらいでしたが、ここはぐっと我慢。業界の常識だよね、という顔で聞いていました。

 印税や原稿買取など、お金の話になったとき、その質問が飛び出しました。
「大きな賞になると、賞金が500万とか1000万とかありますよね。元は取れるんですか」
 当然の疑問でしょう。映像化権や文庫化権などすべてひっくるめた金額ではありますが、いわば新人です。それほどの価値があるのでしょうか。
 ベテラン編集者が、はじめてグラスに口をつけました。薄くなったコーヒーをストローも使わずに半分ほど一気に飲み、口を開きました。
「創作に専念してもらうためのお金です」

 なるほど。賞金を元手に旅行などに行き、鋭気を養ってもらいたいということですね。さすが、老舗! 太っ腹! と感心したのもつかの間。ベテラン編集者のことばには続きがあったのです。
「お仕事をやめていただくんですよ。小説一本でがんばってもらうためにね」
「……!」青年が息をのむのがわかりました。
 わたしだって、胸のうちで、なんですと! と叫んでいました。
「いわば生活費ですね、賞金は」
 小さくなった氷をぽりぽりと噛みながら、ベテラン編集者が続けます。
「つまらないことに煩わされずに、いいものを書いていただきたいんですよ。もちろん、出版の保証はありませんけどね。あなたなら、きっとやれますよ。うん、だいじょうぶだ」
 その青年は、けっこう堅い企業に勤めていました。もし、賞を取ったら、定年までの三十数年を500万や1000万の賞金でちゃらにしてしまえと言われたようなものですね。
 受賞第一作が無事出版され、売れ、職業作家として生活できるという保証があるならまだしも、単なる一時金を手渡されて、あとはきみのがんばり次第だというのが通るのでしょうか。

 ところが、それが通る世界なんですね。

 つい最近も、横溝正史賞を受賞したかたが、受賞第一作を書くために会社を辞め、住まいも引き払い、地方に移住したと聞きました。受賞第一作はめでたく出版され評判もいいようですが、これはまれな例でしょう。自分の文学的な才能に確信があったんですね。
 しかし、ふつうの人はまねしないほうが得策でしょう。職業作家としてやっていけるほどの収入が見込めるようになってから仕事をやめても遅くはありません。二足のわらじでもいいじゃありませんか。

 え? 仕事をやめないと賞金はもらえないのかって? そんなことはありません。そこまでの拘束力はありませんから、ご心配なく。旅行にだって、マイホームの頭金にだって、自由に使ってください。そっちのほうが、よほど安心して執筆できますよ。なにしろ家族が喜びますから。

 おっと、例の青年のことを忘れていました。残念ながら賞は逃がしたそうですが、中間管理職となった今でも、休みの日は小説を書いているそうです。
 血も凍る納涼企画のはずだったんですが、ちょっとイイ話になってしまいました。

 こう暑いとボケてしまいますな、と陽気のせいにしつつ、きょうはここまで。






●衝撃! 横書き表示25%の壁● 9月16日

 勉強熱心なわたしは、この連休にWEBの知識を強化(というか一から出直しというか)しようと、パソコンのまえである本を読んでいました。ちなみに書名は『ウェブ・ユーザビリティ ルールブック』(株式会社ビービット著・株式会社インプレス刊)。
 ご自身でサイトをお持ちのみなさんならとっくにご存じかと思いますが、わたしの場合は遅まきながら、というていたらくです。どこが勉強熱心なのでしょうか。

 この書に、つぎのような見出しがありました。

 ウェブサイトは印刷物の25%のスピードでしか読めない!

というものです。げっと思いましたね。紙の1/4? そんなに遅いの?
 にわかには信じられず、本文を読んでゆくと、

 アメリカで行われた調査によれば、画面上で文章を読む速度は印刷した文章に比べて25%遅くなるという結果がある。

と書いてありました。明らかに見出しの誤りですね。「ウェブサイトは印刷物の75%のスピードでしか読めない!」と書くべきでしょう。
 誤記か……、とほっとしたのもつかの間、なるほどこれには大いに思いあたります。
 横書き表示というのは、なんとなく読みにくいんですよ。

 世代のせいかと思って、すぐに編集部員に電話をしました。迷惑そうな声を出しながらも親切に教えを垂れてくれました。
 読みにくいものと読みやすいものがあるそうです。
「フォントのサイズとか背景とのコントラストとか、いろいろ要因があるんですけど、行間が詰まっていて、なおかつ1行の文字数が多いのがいちばんかないませんわ」
と申しておりました。その心は? とさらにきいてみると……。
「ちょっと気を抜くと、上の行や下の行に目がすべってしもて、目は疲れるしイライラするし……」
と、イライラ気味の声で答えてくれました。

 ディスプレイの横幅いっぱいに行が伸びているレイアウトは論外ですが、常識的なレイアウトの文書でも読むスピードが落ちるのは実感としてわかります。
 横書きの本場、アメリカでの調査で25%ダウンなのですから、縦書き横書きが混在する国におけるディスプレイの横書き表示では、もっとペースダウンするのではないでしょうか。
 これは憂いことですよ。効率アップ、ペーパーレスをめざしたIT化が裏目に出るではありませんか。まさに、倒錯のデジタルデバイド。

 ふたたび編集部員に電話をしました。怒られるかなと思いましたが、意外に声が沈んでいました。おや、今度は半泣きですか。
「そう違わないんじゃないですか。適切な文字数、行間隔をキープすれば、それほど読みにくいことなんかないと思いますけど」
 しかし、オール表音文字の英語とは違い、日本語には表意文字と表音文字が不規則に混ざっています。それが読みにくさにつながるのではないのかな。
「そこまでおっしゃるんやったら、ひらかなだけで文章を書いてみて、縦書きと横書きとを比べてみはったらええのんとちゃいますか」

 ちゃいますよ。なに言ってるんでしょうか、編集部員ともあろう者が。
 縦横の問題ではなく、表意文字と表音文字による可読性の問題になってしまうことくらいわからないのでしょうか。

 ・ウェブ上の文章は、紙よりもやや読みづらい。

 というアメリカでの調査を前提に、では、かな漢字まじり文の日本語ではどうか? という思いにとりつかれてしまいました。
 縦横の問題と表意文字と表音文字による可読性の問題が入り乱れて収拾がつかなくなりそうな予感がしますが、こればっかりはやってみなくては始まりません。
 場合によっては編集部員を交えた討論会もおこなうつもりです。

「……もしもし……あの、討論会とかって聞こえたんですけど」

 あ、電話を切り忘れてた。
 空耳ですよ、と安心させて編集部員を解放してあげました。さあ、連休明けが楽しみです。

 この項、つづきます。






●タテヨコ脳内変換男だったのだ● 9月20日

 前回の続きです。
 編集部員の意見をじっくり聞くまえに、わたし自身の感覚を客観的にみてみることにしました。文章にすることで、討論時の混乱を避けることができるかもしれません。

 これは厳密な実験ではありませんから、ディスプレイのスペックなどは記載しません。ふだん、使っているパソコン環境で行いました。バックや文字の色はわたしがストレスを感じないものにカスタマイズしたものです。

〈小説を読んでみる〉
 ・縦書き=1行めからすいすい読めます。うん、なかなか快適。
 ・横書き=最初はちょっと目がふらつき気味。すぐに、縦書きと同等の快適さになりました。

〈文章を書いてみる〉
 ・縦書き=ふつうです。自分の語彙の狭さにいつものように愕然!
 ・横書き=縦書きよりすいすい書けます。しかし、自分の語彙の(以下略)

 これはどうしたことでしょう? 読むのと書くので正反対の結果になりました。
 文章を取り扱うのでも、受動的(読む)なら縦書きが、能動的(書く)なら横書きがベストのようです。ことばを理解するのと組み立ててゆくのとでは、活躍する脳の部位が異なるのでしょうか。

 瞑目2分。ヒントが天啓のように降りそそぎました。
「読むこと書くことを混同せざるべし。いわんや縦書き横書きをや」
 そうだったんです! 読み・書き・縦・横をごっちゃにしていたから、わけがわからなくなっていたのです。
 少なくともわたしにとって、読むことと書くこととは脳の働きがまったく異なっていたんですね。
 すると、次なる疑問も氷解します。
 なぜ、縦書きが読みやすいか――たいていの書物が縦書きだから。
 なぜ、横書きが書きやすいか――たいていの文章は横書きで書いているから。

 つまり、慣れの問題ですね。

 戦前から戦中にかけて教育を受けたかたに伺ってみると、ほとんどのかたが「読むのも書くのも縦書きがしっくりくる」とおっしゃいます。
 いっぽう、若いかたに同じ質問をすると、「どっちだっていーじゃん。でも、書くのはやっぱ横でしょ」という答。
 慣れというか、習いですね。小さいときから植え込まれた習性。
 だから、いくら横書きで文章を書いていても、読むのは縦書きのほうがいいということになるんですよ、わたしの場合は。

 つまり、横書きの文章を読むとき、頭の中でタテヨコ変換をおこなっているんじゃないでしょうか。だから、横書きの最初でつっかかる。変換作業のアイドリングに時間がかかるわけですな。

 すっきりしました。長年気になっていたことが、たったこれだけの時間でわかってしまうなんて。
 わたしもまんざらではありませんね、といい気になりかけたとき、ふたたび天啓がどーん。
「世の中、横書きが主流なのに書物のほとんどが縦読み用なのはいかに?」
 そういえばそうです。文芸書はもちろん、コミックのネームだって縦書きです。科学啓蒙書の講談社ブルーバックスだって大半が縦書き。技術書や専門書のたぐいくらいでしょう、横書きは。
 またまたこんがらかってきました。今夜は枕を高くして寝られると思っていたのに。

 ではこうしましょう。
 書くことにおけるタテヨコは慣れの問題。
 これでいいですね。

 読むことにおいて、縦書きが主流なのはなぜか。やはり、日本語は縦読みに適しているのか。
 と、これを考えなくてはなりません。
 もうこうなると、わたしひとりの手に負えません。緊急討論会をおこなうべきでしょう。
 ねえ、編集部のみなさん!
 
 おや、なんですか、この空気は。冷房も入れていないのに、ぐっと気温が下がって快適指数が上がったようですよ。
 おやおや、編集部員の心の不快指数はぐんぐん上昇中といった按配でしょうか。
 しかし、公言してしまったしまったものはしょうがありません。近日中にやりますよ、わたしは。

 というわけで、縦書きの神秘が解明される日が、すぐそこまで迫っているのかもしれません。
 刮目してお待ちください。

 この項、当然、続きます。






●だってウソなんだもん● 9月27日

 前回、刮目して待て、なんて大見得を切ってしまいましたが、“タテヨコ”討論会をしようにも、なかなか面子が揃いません。そこで、今回はタテヨコ問題からちょっと離れます。ご容赦のほどを。

「著者に訊け!」に登場いただく添田健一さんから、作品のための調査と取材に時間は惜しまないということを聞きました。
 物語の時代背景となる風俗や芸術はもとより、地形、風土、風習など徹底的に調べるということです。あるときはインターネットで、またあるときは図書館に終日こもったりと、それはそれは徹底しています。

 しかし、それでもどうしても限界に行き当たることもある。
 そんなとき、どうするか?
 そこに触れなくてもいいように設定を微妙に、または大胆に変えてしまうそうです。
 調べに調べたからできる芸当です。
 わたしは感心しました。同時に、ものを書くということの基本は誠実さだなとあらためて思いました。

 ふと、以前、大沢在昌さんがおっしゃっていたことばを思い出しました。
『新宿鮫』シリーズでは、刑事警察と公安警察の暗闘が通奏低音のように物語に緊張感を与えています。とにかく資料を渉猟するそうですが、やはり限界がやってくる。刑事警察と公安警察の軋轢は現場レベルではどうなのよ、と。

 どうすると思いますか?

 関係者に話を聞く? いや、違いますね。かつて、別の作品のためにインタビューに臨んだところ、同伴した編集者に対する扱いとご自身に対する扱いに差があったそうです。もちろん、大手出版社の編集者への扱いが上。あたまにきた大沢さんは、以来、インタビューをしなくなったということです。

 なんと、大沢さんが行き着いた答は、「だってウソなんだもん」。
 小説そのものが虚構なのだから、どうしても調べ尽くせない部分は、想像でもオッケーと自らを許したそうです。

 この話を聞いたとき、わたしはひどく感動しました。
 あれだけ調べるかたが、最後の最後は「だってウソなんだもん」ですよ。鮮やかなけつのまくりかたじゃないですか。
 エンタテインメント小説を書く人間であることの自覚と自信がうかがわれます。
 リアリティを出すためには調査や取材が不可欠ですが、それはあくまでも手段です。
 目的は、小説を読んでくれる読者を楽しませること。リアリティではなくリアルを追い求めていると、それはノンフィクションになってしまいます。
 あるいは、事実に縛られて発想の翼が広げられなくなることだって考えられます。
 ここは、書き手のバランス感覚がものをいう部分でしょうね。

 添田さんのお話をうかがっているときに、なぜ、こんなことを思い出したかというと、添田さんの作品はファンタジーだったからなんですね。
 ファンタジーこそ、虚構の極みじゃありませんか。それなのに、とことん調べる。

「細部がしっかりしてくるし、別作品の題材が見つかることもあるので徹底的にやることは有効です」

というのが、理由だそうです。

 大いなる虚構に命を吹き込むのはリアリティだということでしょう。ぎりぎりまで追い込んでゆきながらも、虚構であることをけっして忘れない。
 大沢さんと添田さんに共通する姿勢です。

 しかし、ここでみなさんに気をつけてもらいたいのは「だってウソなんだもん」の拡大解釈。
 ウソだから細部もウソでいいということにはなりませんよね。
『指輪物語』のジョン・ロナルド・ローエル・トールキンは完璧な虚構の世界を造りあげたではないかという反論も聞こえてきそうですが、トールキンさんは言語学者としてさまざまな言語に通暁していました。
 言語というものは文化であり、歴史であり、国家そのものでもあるわけですから、各種の言語に精通したトールキンさんにとって、言語の背後にあるものを丸め、伸ばし、イメージをふくらませていったのではなかろうかと思います。
 このように、中つ国は完全なる無から生み出されたものではないと、わたしは考えます。言語は国家であるという話は、またの機会に。

 いつになくまじめなことを書いてしまいました。
 リアリティがまったく感じられない、頭だけで書いたような小説の多さに、ちょっと危機感をおぼえていたところだったものですから。

「だってウソなんだもん」は、自分に対するワイルドカードとして用いたいものです。

 おっさんのつぶやきでございました。お粗末さま。




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