●2003年6月 


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フォントいじりは簡単だけど…… 6月13日

 日記サイトなどで、本文中のフォントに色をつけたりサイズを変えたりしているのをよく見かけます。これを“フォントいじり”というらしい。

 効果的なフォントいじりは、文章の芸とあいまって爆笑を誘います。私も突然吹き出すことがあります。そんなときにかぎって編集部員がいたりして、業務怠慢疑惑の渦中に立たされることもしばしば。しかし、うまい人はほんとうにうまい。

 私の個人サイトでもやりたいくらいですが、いざとなったらやめちゃいますね。というのも、「ここ、笑うところ!」っていう押し付けになるんじゃないかと不安になってくるからなんです。
 サイトでやるぶんには、ウケなかったら更新時に消してしまうこともできるし、ある程度、志向の似通った人が集まってくるわけだから、苦笑、失笑ですみますよね。
 しかし、これがプロ作家のものとなるとどうでしょうか。数年前から、文芸誌でもフォントいじりを見かけるようになりました。最近では、新聞小説でもやってるようで、おいおいちょっと待てよと言いたくなります。

 プロ作家がこれをやっちゃうのは卑怯な気がするんですよ。フォントをいじらなければ言いたいことが伝わらない、あるいは、他の作家と差がつかないなんていう理由でやっているとしたら言語道断。表現力を磨く努力を投げてると宣言しているようなものじゃないですか。

 こういう甘え体質を野放しにしたままで出版不況を嘆くんじゃない! 身銭を切って本を買ってくれる読者を軽んじるんじゃない! と業界関係者に言いたいですね。

 フォントいじりをしたければ、あの人の爪の垢でも煎じてからでも遅くはありません(無理だけど)。「お客さん、アタシがこうしたら笑ってくださいね」というだけで笑いをとった故林家三平師匠の。






「文壇」って犬派? 6月14日

 猫と犬の性質をあらわすのに、「猫は家に付く。犬は人に付く」なんて言いますね。
 飼主が引越しちゃっても、猫は居心地のいい元の家に舞い戻ってしまう。いっぽう犬は、ご主人様に添いしたがう性質があるらしい、本当かどうかはわかりませんが。

 そこで思い出したのが、老舗の出版社の編集長がわたしにのたまったひと言。
「文壇はわたしです」。
 耳にしたとき、そこまで言うかと驚いたものでしたが、よくよく聞いてみると、文壇というのは同業者組合ではなく、編集者の影響力がおよぶ作家の集団を指すものらしいんですね。当時、駆け出しだったわたしは、文壇というものは出版社単位で成立していたり、大作家の閥みたいなものを指すものとばかり思っていたので二度びっくり。

 しかし、編集者単位と考えれば、いろいろ納得できますね。たとえば、いとうせいこう氏とみうらじゅん氏のユニットによる「見仏記」シリーズは、最初は中央公論社からスタートしましたが、シリーズ第三弾からは角川書店から刊行されています。これは、シリーズ担当編集者が中央公論社から角川書店に移籍したためです。作家って、人に付くんですね。

 となると、いったい出版社とは何だろう。編集者を育て、作家を接待し、出版から配本までのお膳立てをし、広告までうってるというのに作家を確保することができない。影響力のある編集者が引き抜かれたらこれまでの投資が水の泡。
 トータルで見ると出版社はそれほどぼろ儲けしているとは思えません。価値はあるけど売れない本だって出さなくてはなりませんしね。
 だから、編集者の不満も募るのかもしれません。斬新な企画をたてても、会社がNO!と言えばそれまでです。企画ごと他社に移っちゃえと考えるのも無理からぬこと。
 会社に対する忠誠心はないのか、と憤る向きもあるかと思いますが、「文壇」の面倒をまめにみる人の好さを忘れてはいけません。頼られると断れない親分肌というか男気というか、そういう面が一流の編集者にはありますね。

 ではいっそ、独立採算制にしてみては? 出版社内の個人企業。リスクもすべて自分が背負うというシステムだったら、企画だって自由に通せるし、成功したらそのぶんがっぽり。失敗したらしょぼーん――あ、それじゃ出版社とまるで同じですね。
 会社にはとらわれず、「文壇」をしたがえて業界を渡り歩ける現状のほうが、いろんな意味で刺激があります。でも、読者としては、せめてシリーズものは同一出版社で出してもらいたいものです。本棚に並べたとき、統一感が台無しになりますから。
 猫派編集長からのささやかなお願いです。






船頭多くして 6月16日

 更新記録でご通知したとおり、ライブラリーでの掲載期間を撤廃しました。著者が「載せないでくれ」とおっしゃるまで掲載しつづけます。

 この掲載期間撤廃まで紆余曲折がありまして、編集部内でも折にふれて蒸し返されていたネタだったんですよ。わたしは最初から反対だったんですけど、サーバの容量云々なんてこと言われると、ワケわかんなくなっちゃうんですな。われながらなさけない。

 で、まあめでたく撤廃になったもんだから、撤廃祝いを催したわけです、割り勘で。
 宴たけなわというときに、編集部員Aが聞き捨てならないことを言いだしました。
「編集長、『船頭多くして船山に上る』とは、このことですよね。いやあ、よかったよかった」
 ちょっと待ってくださいよ。この諺の意味は「指図する人ばかり多いため統一がとれず、かえってとんでもないほうに物事が進んでゆくこと」(お約束のあの辞書に書いてあります),だったはずです。
 わたしだっていい大人です。こんなことくらいでかっとはしません。むっとしたくらいです。おまえそんなふうに今回の慶事を見ていたのかと言いたいところをぐっとこらえて、「それ、どういう意味や? アホな編集長に教えてくれへんか」とたずねてみました。
「またまたあ。知ってはるくせにい」とか言いながら、説明してくれましたよ。

 編集部員A曰く「経験に裏打ちされた確かな目を持っている船頭が多く乗っている船は、海はおろか山にまで上れるほどのパワーを発揮する、いうことですわ」。
「きみも優秀な船頭さんの一人いうわけ?」
「いや、ぼくは機関士くらいでいいですわ」

 またまたわたしはずっこけました。いつのまにか小舟が豪華客船か貨物船になっています。このぶんでは、「船長多くして……」と言いだす者がでてくるんじゃないでしょうか。

「転石苔むさず」という諺でも正反対の解釈がそれぞれ定着しているほどですから、編集部員Aのように、集団パワーを称える解釈もあながち根をおろすかもしれません。
  しかしねえ、それじゃ水陸両用の上陸用舟艇みたいじゃありませんか。
  いくらなんでも山には上らないけど。






。。。 だって、・・・ だっていいじゃんか 6月18日

 こういう仕事をしていると、文章に一家言ありというかたとの付き合いもふえるというもんです。

 そんなかたの一人が「最近の若いやつの文章、ありゃなんだ!」とおっしゃいました。“……”(三点リーダー)を“。。。”(句点)や“、、、”(読点)や“・・・”(ナカグロ)ですませているのが、いたく気に入らないとのこと。

 ごもっともな意見なんですが、そうめくじらたてることですかね?
 三点リーダーなどキーボードには印刷されていませんから、出し方がわからない場合、キートップのそれらしい記号を入力してしまうのでないでしょうか。
 文章を打っているときは、余計なことに煩わされたくありませんから、表記の正しさよりも文章の構成や表現に気をくばるほうが正解でしょう。表記なんて、自己校正でなんとでもなりますから。

 ひらかなだって、もとは漢字ですからね。あれは昔のひとが、メモがわりに漢字をくずして使っていた。速く書けるから、こいつは便利だとばかりに広まり、定着したものだそうです。
 とはいえ、“。。。”“、、、”“・・・”はまだしばらくは社会に定着する気配はありません。清書のときに、意識的に修正したほうがいいでしょうね。

 しかし、いつの世にも表記原理主義者という御仁はいらっしゃるもので、かくあるべしという表記法からちょいとはずれているだけで、その文章がダメだと決めつける。
 そんな人ほど身近の人間の文章を指摘するから、まわりのものに煙たがられたりするんですね。もうほとんど小規模テロ。よるなさわるなということになりかねません。いっそ、新聞や雑誌にぼやきミサイルを撃ち込んでいただきたいものです。

 新聞はとくにおもしろい。ようやく“拉致”と書くようになりましたが、最近まで“ら致”でしたもんね。それに、“失踪”が“失跡”ですか?
 あまりにも愉快なので、わたし自身が表記原理主義者になっちゃいそうで怖い。この話は、またいずれ別の機会に。






脅迫状 6月19日

 便利な世の中になったもんです。なあんてここ二十年ばかりのあいだに何度口に出しては年寄り臭く見られたものか……。

 ともかく便利になってなによりです。とくにITの分野の進歩ぶりは、ものを書く人間にとっては工業革命に匹敵するめでたさではありました。
 ワープロ(専用機)が発売されたときは、生きててよかったと本気で思いましたもんね。脅迫状から解放されるのが、なによりもうれしかった。

 なんだか剣呑な雰囲気になってきましたが、“脅迫状”というのはことばのあやでして、小説の新人賞などの応募原稿を、わたしはそう呼んでいました。
 当時は手書きでしたから、書き間違いをした箇所の修正が大変だったんです。新人賞応募の指南書などに「修正液はそのまま塗るな」「棒で消して欄外に書き込むなどもってのほか」なんて脅しの文句が書いてあるものだから。

 では、どのように修正したかというと、該当箇所を修正液で消し、そのうえに字数ぶんの原稿用紙を貼って字を書く、というものでした。
 真新しい原稿用紙に一から書き直すのが最良の方法なのでしょうが、締切ぎりぎりの応募者にはそんな余裕はありません。苦肉の策というところです。だから、修正箇所がたくさんある原稿は、切り張りだらけ。昔のテレビドラマなどによくあった脅迫状を彷彿とさせたんですね。だから、“脅迫状”。

 やがてワープロ専用機からパソコンが筆記具となり、原稿も美しくなりました。「脅迫状がなつかしい」なんていう編集者もいましたが、わたしはまっぴらです。
 原稿用紙に文字以外の要素があるというのは、どうも落ち着きません。作者の情念とでもいいますか、切り張りの向こうから何かが伝わってくるんですね。「落選したら、許さん!」とか「これが最後のチャンスなんです」とか、そんなものを想像してしまいます。
 落とすための賞ではなく、応募者の多くの可能性を引き上げるための賞であったら、そんな思いにとらわれることもなかったのでしょうけれど。
 それほどタフではない編集者にとって、やはりあれは一種の“脅迫状”であったような気がします。

 ネットの世界で自作を発表するかたがたを見ていると、いい時代になったものだとあらためて思います。
 従来の出版というスタイルにこだわらなければ、なんでもありの世界ですし、実際、プロと呼ばれる作家よりも格段にうまいかたもオンライン作家には多数いらっしゃいます。
 アマチュアにとって不滅だと思われていたハードルを、技術の進歩が無力化してゆくのを眺めるのもまた一興。

 いやあ、便利な世の中になったもんです。






ノベライゼーションを読むたのしみ 6月20日

 映画、アニメ、ゲームなどの映像作品を小説に移しかえたものがありますね。いわゆるノベライゼーションというやつです。

 わたしの知り合いに、まずノベライゼーションを読んでから映画を観にいくという人がいます。みずからネタばらししてどうするんだ、とわたしは最初は否定的でした。
 ところが、ある映画についてその知人と話していたら、おどろくほど物語を深く理解しているんですね。復讐の念にとりつかれた筋肉男が活躍するという、ありがちなストーリーだったんですが、頭からっぽだと思っていた主人公が実は緻密な計算のもとに行動していたり、幾種類もの言語をマスターしていたりと、知らないエピソードがどんどん出てきました。上映の最中に寝てしまったりお手洗いに行ったりした記憶はありません。見落としているわけがないのです。
 ひょっとして知人が観たのは幻のディレクターズカットかと問いただしたところ、すべて小説に書いてあったというんですね。

 わたしは悔いあらためました。オリジナルを超えてしまうノベライゼーション、恐るべし。映画を追体験するにもよし、補強するにもよし、通常の小説として楽しむにもよしというスイスアーミーナイフのような徳用本だったんですね。
 そう思ったからには善は急げです。とはいえ日和見体質が騒ぎだし、さすがに観にいく予定の映画のノベライゼーションは避けました。で、観たことのある映画のものを読んでみたところ、オリジナルとは印象がぜんぜん違いました。はっきり言って、映画と同じくらいおもしろかった。

 しかし、ここに大きな落とし穴がありました。主人公の顔やしぐさが、主演の映画俳優にフィックスされてしまっているのです。
 このキャラクターだったら、あの役者じゃミスキャストだろうと思っても、頭に――というかまぶたにこびりついてしまっているのです。この窮屈さがノベライゼーションのネックですね。
 おまけにカバーには映画のスチール写真がこれでもかと印刷されているし、イメージの強迫からは逃れようがありません。作・訳ともに上出来な作品であるほど、惜しい!

 映画を観たら小説が楽しめない、小説を読んだら映画が楽しめない……これはジレンマです。
 そこで、うまい手を考えつきました。こういうことを考えさせたらわたしは日本一なんですよ。
 いくらなんでもこんなもん観らんだろうという映画のノベライゼーションを狙い撃ちするんですね。映画そのものに興味がないから、誰が主演だったかよくおぼえていません。
 で、本を買ったら、目をそむけながらカバーをはずす。口絵がありそうだったらクリップで留めてしまう。これで準備OK! あんがい、拾いものがあったりします。
 しかし、読み終えるまでは慎重に。以前、半分まで読んだところで、その映画のテレビCMを見てしまったときの衝撃ときたら。喪黒福造に「ドーン!」とやられたような気がしました。おれがなにしたってんだよお、約束なんかやぶっちゃいねえのによお、とあまりの理不尽さに血涙を流したのは言うまでもありません。

 なにもそこまでして読まなくってもいいじゃないの、と家人があきれておりましたが、いや実にまったくそのとおり。
 明日がつらかろうが眠かろうが、買ってきたその日のうちに読んでしまえばいいんです。徹夜してでもね。
 そんなときにかぎって、シナリオからおこしただけのすかすかのノベライゼーションだったりするんですね。
 ああ、またあいつが太い人さし指をこちらに突きつけているのが見えるようです。
「ドーン!」。






編集長は今日はお出掛け 6月21日

 こんにちは。編集部の者です。随筆に新しいページを作っておくように言い残して、編集長は著者インタビューに出掛けていきました。
 新コーナーの準備で忙しいとか言ってるけど、何ですか、この随筆は。もう3ページ目に突入ですか? おとなしく留守番してると思ってたら、こんなもんばかり書いちゃって。
 今日は編集部もゆったりめなので、ぼくも何か書かせていただきます。
 といっても急にはネタが浮かばない。
 そうそう、編集長が企画した新コーナーのこと書きましょう。仮タイトルは「著者に訊け」とかいうらしいです。ライブラリーに作品を掲載している著者の方々を訪ねて、創作の苦労話を根掘り葉掘り伺うという企画なんですが、どうせ世間話ばかりしてご迷惑をかけるんでしょう。そういえば、デジカメまで持っていった様子ですけど、あの人、ちゃんと使えるのかな?
 新企画を考えるのはいいけど、ちゃんと自分でページを作ってくださいよ。ぼくたち忙しいんだから。いつものようにぼーっとしてると「悶々随筆『編集長はきょうも残業』」になっちゃいますよ。
 と、激励したところで今日はおしまい。どうせ、消されちゃうんだろうけどね、こんな私信。

消しません。充実したインタビューでした。カメラはうまく使えました。ぼーっともしてません。
                                          編集長記(2003年6月21日)





速報! 新企画進行中 6月23日

 なにが「悶々随筆」ですか、失敬な。インタビューから帰ってきたら編集部員の、上の連絡文。一気に脱力してしまいました。お目汚しで申し訳ありません。猛省を促すため、あえて残します。

 きょうはちょいと宣伝めいた内容になるので、ご興味とお時間のないかたは飛ばされたほうが賢明かと思います。
 さて、編集部員が勝手に発表してしまいましたが、新たに著者インタビューのページを設けることにしました。原稿のやりとりや作品の評価などはすべてメールでおこなってきたので、初対面という著者のかたがほとんどです。
 しかし、作品から受ける著者の印象がまったく裏切られるということはありません。「梓」では、作風ではなく、書きようを見つめているからでしょうね。
 過激なバイオレンスシーンが書いてあっても文章そのものは端正だったり、短いセンテンスで場面をどんどん進めていても粘りが感じられたりと、いろんなことが見えてくるもんです。人柄とまでは言いませんが、人となりというかな……そんなものがわかります。だから、初対面なのにすでに面識があるような気がするのです。

 今回、お話をうかがった著者も、そんなかたの一人。作品には殺人や暗い濡れ場がばんばん出てくるんですが、ご本人はいたって気さくなかたで、おやじギャグの連発には正直言ってまいりました。もう聞きたくありません。
 しかし、そんなくだらないギャグの合間に本音がちらり。筆致どおりのロマンチストでした。もちろん、創作の苦労話もしっかり聞き出しましたから、ご安心ください。オンライン作家のみなさんの共感が得られるものになるだろうと思います。

 編集部の雲行きを見ておりますと、ページ作りはわたしが自力でやらなければならないようです。まあ、ある程度、ページのコンセプトを固めてしまえばこっちのもの。編集部員だって人の子です。いろいろ教えてくれますよ。
 昼めしという根回しは、こういうときのためにあるんです。気安くおごってもらうんじゃなかった、と頭をかかえても手遅れというものです。

 では、新企画の登場をお楽しみに!






パソコン、しゅきしゅき 6月24日

 編集部員が上の私信(わたしもしつこいね、まったく)で、デジカメをうまく使えるかどうか心配していましたが、その気持もわからぬでもありません。メカにはからきしなんですよ。
 ひとつのボタンがいくつもの働きをもっているというだけでお手上げです。携帯電話なんかそうですよね。おまけに小さい。電話を受けるくらいはわたしにだってできますが、あのボタンをぽちぽち打つのが鬱陶しくて、こちらからかけたことはほとんどありません。

 しかし、こんなわたしがメカとエレクトロニクスの粋ともいえるコンピュータを使いこなしているから不思議です。これほど兼用ボタン(キー)に頼りきったものはありませんよね。
 ワープロ専用機だったら、コピー&ペーストはキートップに「移動」とか「複写」と印刷されていて、ひと目で要領がつかめましたが、コンピュータはコントロールキーとX、C、Vを使い分けなくてはなりません。
 範囲指定してコントロールとXを押したとたん文字が消えたときには、のけぞりました。

 コンピュータというのは面妖なもので、使っている者に高速化への誘惑をしきりに投げかけてきますね。「もっと起動が速くならんか」「よく使うアプリケーションをキーひとつで呼び出したい」なんて、つい考えてしまいます。
 べつに不満でもないのに、なーんかストレスが溜まるような気がする。養命酒をおすすめされる人のような状態に似てますね、これ。
 そんなときにパソコン雑誌の見出しが目に飛び込んでくるわけです。「パソコン最速化計画!」「マニュアルいらずの安定化・最速化」。神の声を聞いたような気分です。
 で、雑誌を買い込んであれこれやってみる。すると、たしかにきびきび動くようになった気がする。こんどはフリーウェアを入れてみる。おお、こんな便利なソフトがただなの? と、お得感に舞い上がる。そうこうしているうちに、どうにかコンピュータというものがわかったような気になるんですね。レジストリなんてこわくて手が出ないくせに、です。

 これが、コンピュータとともに歩んだ、わたしの3年間です。
 メカダメ男のわたしが挫折もせずに続けてこられた理由に、最近、思い当たりました。
 庭いじりと一緒なんですよね、コンピュータって。
 こっちにこれを植えて、あっちの枝をはらって、あ、こんなところに雑草が……というぐあいです。
 アプリケーションが勝手に成長するわけではありません。自分で設定したりつくったりしたものが、繁ってゆくわけです。
 自分でややこしい事態を招くいっぽうで、それを楽しんでいる。これこそ倒錯ですね。
 いつか、きりがないことに気づいて飽きてしまうかもしれません。すると、次に血道をあげるのは盆栽でしょうか。
 コンピュータの盆栽化って、いったいどういう状態をいうのでしょうか。

「うちのパソコンは盆栽だよ」というかた、ご連絡をお待ちしています。
 わたしの老後の充実は、あなたにかかっていますので、どうかよろしく。






イメージの時代 6月25日

 映画が発明され、見せ物として公開されはじめたときのお話です。
 スクリーンに映された蒸気機関車がどんどん近づいてくると観客がそわそわしだし、やがて「あぶない!」と誰かが叫ぶといっせいにスクリーンの前から逃げ出したそうです。
 いま、そんな反応をする人はいません。同じものをドルビーデジタル付きで見せられても同じでしょう。どれほどリアルな映像でも、スクリーンに映し出された影であることを知っているからなんですね。

 ひとつの約束事といいますかね。これが破られると、人は不安になる。
 匂いの出る映画もそのくちです。湯気をたてるコーヒーカップがアップになったとたん芳しいアロマが劇場にただよう、というものですね。
 視覚と聴覚だけでなく、嗅覚まで動員させられた日には、映画に没頭できませんよ、きっと。将来はどうなっているかわかりませんが。

 こういった約束事は世の中には無数にあり、ときにははっきりした取り決めもないのに、「ああ、これはそういうものか」と納得することもあります。
 とくに、文芸はそうですね。先日、編集部に届けられた小説を拝見しているときに感じました。
 その小説は、センテンスもパラグラフも非常に短く、一見したところ詩のようでした。ところが、読みはじめてすぐに映像と音が鮮明に浮かんでくるじゃありませんか。
 小説を読むとき、多かれ少なかれ映像は流れるものですが、これほど強烈なものは経験したことがなかった。いわゆる映像詩が頭の中で再現されるんですよ。こんな文章はこういうふうに読むというルールなどないのにもかかわらず。

 わたしの世代よりも映像に接する機会が多いんでしょうね、いまの人たちは。
 描写を極力避けているにもかかわらず、セリフやちょっとした仕種を織り込んでくる。それが、読み手のツボを押し、映像体験の中からふさわしいショットを引き出すんでしょうか。恐るべし、です。
 約束事の自動更新とでもいいますか、勝手にアップデートとでもいいますか、軽い衝撃ではありますが、心地よくもあります。
 読者の映像体験を燃料にして、文芸という文字だけのエンジンが唸るさまは、壮観ですな。

 視覚本位のビジュアルの時代から、五感をカバーするイメージの時代へと変わりつつあるのかもしれません。でも、匂いだけはちょっとカンベンしてもらいたいけど。






こんなもんだろ 6月27日

 習慣とはおそろしいもので、この随筆を書かない日はどうも物足りない。
 やり残したことがあるような気がして、ゆうべは寝つきが悪うございました。

 習慣にもいろいろありますが、知恵と工夫のなさによって招いてしまった習慣というのはやっかいですね。
 わたしの場合が、まさしくそれ。コピ&ペーストの手間を惜しんで、ホームページ作成画面に直接打ち込んでいたんですね。字を打つだけなんだから、となめてしまっていました。
 入力画面の字は小さいわ、バックにグリッドは出てるわ、カーソルの動きが見づらいわ、実に貧弱な環境のもとで文章を書いておりました。使い慣れたエディタで文章を書いてホームページ作成画面にコピーすれば……と閃いたのは、つい先ほどのことです。

 こんなもんだろ、とあきらめてしまってはダメですね、やっぱり。パソコンを使いはじめたころにもそんなことがありました。
 慣れてくると、マウスがわずらわしくなる。最初は便利便利と酷使していたくせに冷たいもんです。範囲指定ひとつするにもキーボードから手を離さなくてはならないのがつらい。無事ドラッグを終えたときには、何を書こうとしたかすっかり忘れていたなんてことは一度や二度ではききません。
 キーボードショートカットというものがあるということを知ったのは、パソコン歴2年めの夏でした。いやあ、もううれしくって「マウスなんか使ってらんないよ、まったく」と、あちこちで吹聴して顰蹙をかったものです。ああ、恥ずかしい。

 でも、こんなもんだろとあきらめなかったわたしにも、少しは見どころがあるかもしれません。目の前に効率化の鍵がぶら下がっていることに気づかないのはくやしいし、なんだか間抜けです。
 こんなもんだろ、ではなく、どんなもんだろ(こんなことができないか)、と考えることが何事においても上達の早道といえます。

 ただ、コンピュータにおいての「こんなことまで!」というのは効率にかんすることで、“文書”づくりのスピードアップはできますが、“文章”づくりのスピードとクオリティのアップまでは望めません。

 文章については、こんなもんだろ、くらいの気持で力を抜いて取り組むのがいいかもしれません。あんたは力抜きすぎ! とよく言われるんですが、気にしない気にしない。人間は機械じゃないんだから。



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